万葉集に記録されたホトトギスの托卵

昨日、卯の花の記事を書くために、卯の花を詠んだ万葉集の歌を調べていたところ、なんとホトトギスの托卵が歌われていることに気づきました。

万葉集巻第九(1755)

鴬の 卵の中に、霍公鳥(ほととぎす) 独り生れて、斯が父に似ては鳴かず、斯が母に似ては鳴かず、卯の花の 咲きたる野辺ゆ、飛びかけり来鳴きとよもし、 橘の 花を居(ゐ)散らし、ひねもすに鳴けど聞きよし、 賄(まひ)はせむ。遠くな行きそ。我が宿の 花橘に 住み渡り鳴け。

鴬の卵の中で、郭公(ほととぎす)がたった一疋生まれて、その父親に似た声でも鳴かず、その母親に似た声でも鳴かず、全く別の声で鳴き、卯の花の咲いている野の中を辺を動かすまでに、大きな声で鳴いて、橘の花をば、止まったために散らしてしもうて、一日の間鳴いてはいるが、聴いているのに心持ちがよい。お前に駄賃をしようから、そんなに遠く行かないでいて呉れ、そして、自分の屋敷の橘の花に、住み続けて鳴いてくれ。(折口信夫訳、岩波現代文庫

ホトトギスは、よく通る声で鳴きます。初夏に最初に鳴く声を「忍び音」と言います。「テッペンカケタカ」と表現されることが多いのですが、私の子供のころには、「東京特許許可局」という読みをあてて、早口言葉のようにマネをして、遊んでいました。

https://www.youtube.com/watch?v=iH6UAfbDsP8

で鳴き声を聴くことができます。

声は良いのですが、ウグイスなどの他の鳥の巣に卵を生みこみ、子育てをさせるというえげつない鳥です。この習性は、「托卵」と呼ばれます。正確には、「種間托卵」(同種内で他の巣に卵を生みこむ「種内托卵」は多くの鳥でみられます)。ウグイスの巣でいち早く孵化した雛は、ウグイスの卵を巣の外に捨て、育て親を独占します。雛の背中は、ウグイスの卵をうまく載せられるように、すこし窪んでいます。また、ホトトギスの雛は、育て親に自分の子という勘違いを刷り込む技を持っています。育て親のウグイスは、形がまったく違うホトトギスの雛に給餌をして、けなげに育てます。ホトトギスの雛は、すぐに育て親のウグイスより大きくなるのですが、それでもウグイスは、自分より大きなホトトギスの雛に給餌します。この様子をとらえた写真を見たときは、なんてひどいやつだと思いました。ウグイスは、もうけなげで、あわれ。それに比べ、大きく育ったのに小さなウグイスから餌をもらっているホトトギスは、エグすぎです。

ホトトギスを含むカッコウの仲間には、種間托卵の習性が広く見られます。宿主をだまして餌をもらっているすばらしい写真を収めた本があります。残念ながら絶版ですが、中古は購入可能です。

https://www.amazon.co.jp/s?k=%E9%83%AD%E5%85%AC+%E6%96%87%E4%B8%80%E7%B7%8F%E5%90%88%E5%87%BA%E7%89%88&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&ref=nb_sb_noss

小さなコルリが大きなカッコウの雛に給餌している見事な写真が忘れられません。すばらしい写真集です。

さて、上記の万葉集の記述は、もしかして托卵に関する世界最古の記録ではないかと思って、調べてみました。しかし、残念ながら、もっと古い記録がありました。

1977年に出版された種間托卵に関する総説

https://www.amazon.co.jp/s?k=%E9%83%AD%E5%85%AC+%E6%96%87%E4%B8%80%E7%B7%8F%E5%90%88%E5%87%BA%E7%89%88&__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&ref=nb_sb_noss

The early Vedic writers of India as well as Aristotle mentioned as common knowledge the fact that cuckoos are reared by other species.

という記載があります。Vedicとは「ヴェーダ」、つまり紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂されたバラモン教ヒンドゥー教聖典です。アリストテレスの「動物誌」は紀元前4世紀の書物。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E7%89%A9%E8%AA%8C_(%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9)

によれば、第9巻29章がカッコウについての記述です。「動物誌」は読んだことがありませんが、目次だけ見ても、とんでもない本であることがわかります。

紀元前4世紀にこれだけの書物が書かれていたとは、おそるべし古代ギリシャ、おそるべしアリストテレス。しかも、当時の記録は石板ですよね。一字一字、石に掘ったんです。カッコウの托卵の記述も。

万葉集の成立は紀元後の7世紀なので、アリストテレスの「動物誌」よりも1000年以上あと。このころにようやく日本人は、「文字」という記録のツールを獲得したわけです。そのあとのキャッチアップは早かったと思いますが、文字を持たなかったことのハンディがいかに大きいかを思い知らされますね。

大伴旅人に贈られた卯の花とホトトギスの歌

今日のInstagramでも紹介したように、伊都キャンパス生物多様性保全ゾーンでは、ウツギの花が咲き始めました。f:id:yahara:20190520195417j:plain

ウツギの通称は、ウノハナ(卯の花)。明治のころに作られた歌曲『夏は来ぬ』の最初の歌詞で「卯の花匂う垣根にほととぎす早も来鳴きて忍び音もらす夏は来ぬ」と歌われています。私が子供のころには、この歌は学校で教わりましたが、いまはどうなのでしょうか。この歌詞を書いた佐佐木信綱さんは歌人で、古典にも通じていた方なので、卯の花とほととぎすが万葉集の多くの歌ででセットで歌われていることを当然ご存知だったでしょう。

そのうちのひとつは、第8巻の次の歌。

ほととぎす 来鳴き響(とよ)もす 卯の花の むたやなりしと 問はましものを

(ほととぎすの来て近辺をとよもして鳴いて散らす卯の花と一つになって、どこかに行っておしまいになったか、と跡を追うても、探したいものだが:折口信夫訳、岩波現代文庫より)

この歌には、以下の注がついています。

「右、神亀五年。太宰ノ師、大友ノ旅人の妻、大友ノ郎女が、病のため死んだので、勅使として、石ノ上ノ堅魚が、太宰府に弔問に来た時に、太宰府の役人たちと記夷の城に上って、眺望して遊んだ日、作ったもの」(折口信夫訳、岩波現代文庫より。なお、「記夷の城」は基山城) 

神亀五年は西暦728年。翌年の神亀六年8月5日に改元が行われ、天平年間が始まりました。そしてその翌年、天平二年正月十三日に大伴旅人邸に山上憶良らが集まって32首の梅の歌を詠みました。その序文の一部から「令和」の元号が発案されました。三宅香帆さんの記事によれば、この宴は、妻の郎女(いらつめ)を亡くした大伴旅人を慰める意味があったそうです。

卯の花は、万葉の時代にはとても愛されていて、万葉集には24首の歌に詠まれています。ほんのわずかに黄味がかった白い花の色は、「卯の花色」と呼ばれ、平安時代からある伝統的な色の表現です。卯の花が白く咲いている月夜は、「卯の花月夜」。なかなか風情のある表現ですね。また、卯の花が咲くころに降る「梅雨の走り」の雨のことを、「卯の花くたし」と言います(「くたし」は腐し、腐らせるという意味です)。

それほど万葉の時代から日本人に親しまれた植物ですが、里山的な環境の減少とともに、九大伊都キャンパス周辺では珍しい植物になってしまいました。伊都キャンパス生物多様性保全ゾーンには、数株が残るだけです。しかし、ウツギの花の時期に活動し、ウツギの花の花粉で子育てをするウツギヒメハナバチがさかんに訪花していました。ウツギとウツギヒメハナバチの共生関係が、伊都キャンパスでいつまでも続いてほしいものです。

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屋久島の豪雨

屋久島 山中で一夜明かした300人超全員の下山を確認

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190519/k10011921651000.html

とりあえず、行方不明者や大けがをした人が出ず、全員下山できたと聞いて、ほっとしました。登山客とともに荒川登山口に足止めされたバスの車中で18日の夜を過ごされた計28人のガイドさんたちにも、ごくろうさまと申し上げたい。まずはゆっくり休まれてください。ストレッチの指導をされたりしている様子をツイッターや知人のFacebookで知ることができました。

今回の事態については、これから反省の議論が進むでしょう。

17日午前の段階で、屋久島では週末に大雨のおそれがあるという気象情報が私のもとにも届いていました。私は屋久島をフィールドに研究を続けており、安房に家も持っているので、屋久島の気象情報についてはいつも気にかけています。

屋久島町に大雨警報が発表されたのは18日午後3時半ごろなので、縄文杉登山客をガイドする方たちには、18日早朝の時点での判断は難しかったでしょう。せっかく屋久島に来て、縄文杉に行くことを楽しみにしているお客さんに対して、中止の判断を下すのはむつかしい。また、屋久島はよく雨が降るところですから、「ここは屋久島だから多少の雨は仕方ないね」という判断で出発されたのでしょう。

しかし今後は、今回のようなことが起き得るという想定をすることが必要になります。大雨の予報が出ているときに、縄文杉に行くことはすすめられません。私がこの週末に屋久島に調査に入っていた場合、野外調査は中止したでしょう。実際に、大雨の予報を受けて野外調査を中止した経験が過去に何度かあります。そのうち一回の大雨時には、沢で流されて、不幸にして亡くなられた方が出てしまいました。

また、今回のような記録的豪雨は、九州では今後どこでも発生する可能性があります。たとえば、九大伊都キャンパスでも起こり得る。九大では、そのときにどうするかについてのリスク管理教育をしっかりやる必要があると思います。大学生活におけるリスク管理のテキストを、来春までに作れないかと考えていますが、やるべきことがたくさんありすぎ。ひとつずつ片付けます。

はてなダイヤリーからはてなブログへの移行のときに、ブログのアドレスが2つになったため、「Y日記」を主に仕事関連のブログに、「Z」をそれ以外の、徒然なるままに書き連ねるブログにしようと思います。

「Y日記」に以下の記事を書きました。

適応的共同管理

https://yahara.hatenadiary.org/archive/2019/05/18

適応的共同管理(続)

https://yahara.hatenadiary.org/archive/2019/05/19

ナガバギシギシにつくアブラムシは敵か味方か?

f:id:yahara:20190516213208j:plain伊都キャンパス生物多様性保全ゾーンの道端にはナガバギシギシの群生があるのだが、どの株にも写真のようにたくさんのアブラムシ(たぶんギシギシアブラムシ)が付いている。ナガバギシギシの師管液を吸っているから、ナガバギシギシにとっては食害者、つまり敵に見える。しかし、このアブラムシの甘露を狙ってたくさんのアリが随伴している。アリ(種名不詳)は、少なくともアブラムシの天敵であるテントウムシ(たぶんナナホシテントウムシ)を追い払っている。下の写真は、アリによるテントウムシの撃退シーンだ。

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ここから先は想像だが、ナガバギシギシの茎や葉を食害する蛾の幼虫なども撃退しているのではないか? もしそうなら、アブラムシはナガバギシギシにとってはむしろ味方かもしれない。

さらに想像を逞しくすると、スイバはアントシアニンやシュウ酸でアブラムシを含む食害者に対して防御している(だから赤くて酸っぱい)。しかしナガバギシギシはアリによる防御をしているので、アントシアニンやシュウ酸を作らないのではないか?

検証する価値のある仮説だと思うので、誰かぜひ調べてほしい。

なお、ナガバギシギシは外来種だが、ギシギシアブラムシは在来種で、在来植物のギシギシにも付く。おそらくギシギシと共進化したのだろう。

スイバの謎

f:id:yahara:20190515213601j:plainスイバの果実の拡大写真です(Instagramにもポストしました)。ご覧の通り、ピンク色の縁取りがあって、かなり綺麗です。アントシアニンの赤い色素が作られているのだと思いますが、この色に何の意味があるのでしょうね? おなじ属のギシギシは果実になっても緑色をしており、若い果実が光合成をして炭水化物を稼いでいます。その方が経済的だと思いますが、スイバの果実は緑色のクロロフィルを減らして、アントシアニンを作っています。何かを誘引しているとは考えにくいので、防衛機能の可能性が高いと思いますが、いったい敵は何者でしょうか。

f:id:yahara:20190515213718j:plainスイバにはもうひとつ謎があります。スイバは雌雄異株で、性染色体を持つことで有名です(昔の植物学者には有名でした。今は植物学者でも知らない人が多いかも)。ところが、場所によっては雌株ばかり生えていることがあります。九州大学伊都キャンパスもその例で、あちこちに群生していますが、雌株ばかりです。セイヨウタンポポのように無性生殖で種子を作る倍数体が広がっているのではないかと疑っています。

このように、ごくみじかな植物にも、わからないことがたくさんあります。

伊都キャンパス花だより

f:id:yahara:20190514204314j:plain4月から、伊都キャンパスの植物の写真をiPhoneで撮ってInstagramにポストしています。今日はクスノキコマツヨイグサの2種をポストしました。この季節は花が多く、1日1種では開花中の全種をとてもカバーしきれません。しばらくは2種ずつポストしようかなと考えています。この活動を一年続ければ、400種程度をカバーした植物ガイドが作れます。ハンディ版と豪華版を作ることを考えています。豪華版は九大のお土産として使ってもらえるでしょう。ハンディ版の方は、オリジナルな情報を盛り込んで、植物に詳しい人でも買いたくなる本にする予定。例えばアカオニタビラコとアオオニタビラコの違いや学名については、平凡社の日本の野生植物でも不正確なので、新しい正確な情報を提供する予定。このような付加価値をつければ、全国で買っていただけるでしょう。f:id:yahara:20190514204405j:plainご期待ください。

さて、今日ポストした2種は、どちらも研究してみたい植物です。クスノキは不思議な木で、成長が早く、陽樹的なのに、林冠に達して、かなり大きな木にならないと開花しない。かなり長寿の木で、神社にはよく老木があります。常緑樹とされていますが、葉の寿命は一年で、新葉の展開後に旧葉を落とします。クスノキについては、伊都キャンパスの森林移植地にかなりの個体数があり、過去15年間の成長・生残のデータがあります。森林移植の効果を検証した結果を論文にまとめる予定なので、その中で、クスノキについてもとりあげます。

コマツヨイグサは、北米東部原産の外来種ですが、明治初期にはすでに日本に渡来しており、100年以上の時間をかけて日本の自然環境に適応してきました。北海道から沖縄まで、広く分布しており、適応進化の研究材料としてとても有望。花が大きくて交配しやすいし、自殖も可能。おそらく自殖の程度も地域によって分化している可能性があります。自殖・他殖の進化の研究材料としても有力です。誰か研究しませんか?

詩の解釈の多義性ー万葉集の歌の解釈について考える

令和の出典となった万葉集の「蘭」が、ラン科植物ではなくフジバカマだという記事をJBPressに書きました。多くの方からコメントをいただきました。

-蘭が藤袴だとは驚きです。素晴らしい考察だと思います。令和の万葉集からの真の解釈が成り立ちますね。私も王羲之の蘭亭序曲水の宴が下地では無いかと思っていましたが、先生の意見に賛同いたします。格調高い蘭亭序曲水の宴と梅の宴の歌会。珮後の飾りと藤袴の植物学からのアプローチ。感動しました 。

-園芸クラスタの間でも話題になってた、序文に出てくる蘭の正体について! シュンランではないかと思ってたら日本に入ってきたのはずっと後とのこと。古代の中国についての知識がないと解けないナゾだったのはおもしろーい!  

-あの【蘭】は藤袴か‼️ 靄がすっと消えて、令月の庭の情景が目に浮かびます。孝謙天皇の歌が、世界最古のウイルス感染記録って凄いですね。

-あの「蘭」てなんなのか気になってたけど、フジバカマのことだったのか!しかも若葉を愛でるとは。みんな何かと花花って言うけど、草木の若葉もいいよね。

「蘭」って何だろう、という疑問に答えることができて、うれしく思います。

ただ、知人の末次さんからは、「やはりフジバカマが有力なんでしょうかね.ラン好きとしてはラン説もすてがたいですが...」という残念そうなコメントをいただきました。

そこで思い出したのが、赤とんぼの歌です。

「夕焼け小焼けの赤とんぼ おわれて見たのは いつの日か」

私は小さいころから、「おわれて」は「追われて」の意味で、自分が赤とんぼになって追われてみた、という詞だと信じてきました。昆虫少年だった私は、赤とんぼとして、自分が追われてみる気持ちになることに、何の疑問も感じなかったのです。

この解釈の夢を打ち砕いたのは、高校時代の旺文社模試。「おわれて」に当てる漢字としてどれが正しいかを選ぶ問題で、何の疑問も感じずに「追われて」に〇をつけた私を待っていたのは、この問題だけ×という、まったく納得がいかない結果でした。

その後、「姐や」の背中で負われて見た、という正解を知らされて、確かにこれが作者の意図だと思うし、試験問題的には正解だろうと理解したけど、それでも納得がいかなかった。作者がどういう意図で作ろうが、詩は生まれた時点から読者のものだ。読者が解釈する余地がある詩が良い詩なんだ。「鶏頭の十四五本もありぬべし」だってそうだ。読者の解釈の余地を許さず、ひとつだけの解釈を正解にする試験なんて、おかしい・・・と憤慨したのを、今でもよく覚えています。

だから、「蘭」を香の良いラン科植物と思いたい方は、ぜひその思いを大切にしてください。

新元号「令和」元ネタの万葉集では、「妄想力」が爆発していた

で三宅香帆さんが解説されているように、「梅花の宴」の詩は妄想の産物かもしれません。というより、そもそも詩は妄想の産物です。

一方で、以下のコメントもいただきました。

-「令和」という言葉を独り歩きさせずに、言葉が生まれる背景と生んだ光景とをどちらも味わえる美味しい記事。万葉の歌人の感じた風情を体感できれば、自ずと起源論争も片付くのかな。

記事を書いたときの私の意図を汲んでいただいたコメントです。「はじめての和書からの元号だ」「いや漢籍にオリジナルがある」という起源論争をしている方々にお願いしたい。詩を読んでよ。「梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭は珮(はい)後の香を薫す」という序文が描いた光景を、あなたはどう解釈するの? 

そういう思いでいる私に、万葉集研究者として知られる品川悦一氏の主張が届きました。この主張を紹介したGEISTEさんのツイートは、現時点で4929回もリツイートされています。冷静な解釈より、激しい記事のほうが注目を集める例ですね。

品川さんには、ファクトと解釈を分けましょうよ、と申し上げたいです。これは、自然科学では当たり前のルールです。解釈は多義的であって良い。品川さんのように批判的な見方をするのは、研究者としては大切なアプローチですね。しかし、他の可能な解釈を公平に紹介せずに、自分の解釈だけを一方的に主張してはあかんでしょう。

大伴旅人太宰府に赴任した背景については、Wikipediaの以下の解説が公平なまとめだと思います。

当時権力を握っていた左大臣長屋王排斥に向けた藤原四兄弟による一種の左遷人事[4]、あるいは、当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された人事[5]の両説がある。・・・旅人の大宰帥時代については、史料が万葉集のみに限られていることから、旅人周辺の人物関係については推測の域を出ていない考察が多い。

歴史学者であれ植物学者であれ、研究者の大事な仕事は、ひとつひとつのファクトをしっかりと確認し、根拠を積み上げていくことでしょう。それをどう解釈するかについては、さまざまな立場があり得ます。その解釈の余地を狭めていくには、ファクトを積み上げるのが大事。一方的な主張を展開して、対立をあおるべきではありません。

あれ、赤とんぼの歌詞の思い出を書いているうちに、しょっぱい話題になってしまいました。万葉集は明治から太平洋戦争にかけて、国威発揚に使われたという歴史もあり、万葉集を語りだせば、しょっぱい話題は避けられませんね。

詩については、いろいろな解釈があって良いと思います。解釈をめぐる対立を避けるうえで大事なのはファクトです。

私の記事では、起源論争を回避するために、いくつかのファクトを提示しました。「梅花の宴」の序文は、張衡「帰田賦」や王義之「蘭亭序」などを念頭に置きながら、独自の工夫をこらして書かれた。そこで描かれた光景は、とてもさわやかだと思います。私の記事が、そのさわやかさを伝えるうえで役に立つことを願っています。