詩の解釈の多義性ー万葉集の歌の解釈について考える

令和の出典となった万葉集の「蘭」が、ラン科植物ではなくフジバカマだという記事をJBPressに書きました。多くの方からコメントをいただきました。

-蘭が藤袴だとは驚きです。素晴らしい考察だと思います。令和の万葉集からの真の解釈が成り立ちますね。私も王羲之の蘭亭序曲水の宴が下地では無いかと思っていましたが、先生の意見に賛同いたします。格調高い蘭亭序曲水の宴と梅の宴の歌会。珮後の飾りと藤袴の植物学からのアプローチ。感動しました 。

-園芸クラスタの間でも話題になってた、序文に出てくる蘭の正体について! シュンランではないかと思ってたら日本に入ってきたのはずっと後とのこと。古代の中国についての知識がないと解けないナゾだったのはおもしろーい!  

-あの【蘭】は藤袴か‼️ 靄がすっと消えて、令月の庭の情景が目に浮かびます。孝謙天皇の歌が、世界最古のウイルス感染記録って凄いですね。

-あの「蘭」てなんなのか気になってたけど、フジバカマのことだったのか!しかも若葉を愛でるとは。みんな何かと花花って言うけど、草木の若葉もいいよね。

「蘭」って何だろう、という疑問に答えることができて、うれしく思います。

ただ、知人の末次さんからは、「やはりフジバカマが有力なんでしょうかね.ラン好きとしてはラン説もすてがたいですが...」という残念そうなコメントをいただきました。

そこで思い出したのが、赤とんぼの歌です。

「夕焼け小焼けの赤とんぼ おわれて見たのは いつの日か」

私は小さいころから、「おわれて」は「追われて」の意味で、自分が赤とんぼになって追われてみた、という詞だと信じてきました。昆虫少年だった私は、赤とんぼとして、自分が追われてみる気持ちになることに、何の疑問も感じなかったのです。

この解釈の夢を打ち砕いたのは、高校時代の旺文社模試。「おわれて」に当てる漢字としてどれが正しいかを選ぶ問題で、何の疑問も感じずに「追われて」に〇をつけた私を待っていたのは、この問題だけ×という、まったく納得がいかない結果でした。

その後、「姐や」の背中で負われて見た、という正解を知らされて、確かにこれが作者の意図だと思うし、試験問題的には正解だろうと理解したけど、それでも納得がいかなかった。作者がどういう意図で作ろうが、詩は生まれた時点から読者のものだ。読者が解釈する余地がある詩が良い詩なんだ。「鶏頭の十四五本もありぬべし」だってそうだ。読者の解釈の余地を許さず、ひとつだけの解釈を正解にする試験なんて、おかしい・・・と憤慨したのを、今でもよく覚えています。

だから、「蘭」を香の良いラン科植物と思いたい方は、ぜひその思いを大切にしてください。

新元号「令和」元ネタの万葉集では、「妄想力」が爆発していた

で三宅香帆さんが解説されているように、「梅花の宴」の詩は妄想の産物かもしれません。というより、そもそも詩は妄想の産物です。

一方で、以下のコメントもいただきました。

-「令和」という言葉を独り歩きさせずに、言葉が生まれる背景と生んだ光景とをどちらも味わえる美味しい記事。万葉の歌人の感じた風情を体感できれば、自ずと起源論争も片付くのかな。

記事を書いたときの私の意図を汲んでいただいたコメントです。「はじめての和書からの元号だ」「いや漢籍にオリジナルがある」という起源論争をしている方々にお願いしたい。詩を読んでよ。「梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭は珮(はい)後の香を薫す」という序文が描いた光景を、あなたはどう解釈するの? 

そういう思いでいる私に、万葉集研究者として知られる品川悦一氏の主張が届きました。この主張を紹介したGEISTEさんのツイートは、現時点で4929回もリツイートされています。冷静な解釈より、激しい記事のほうが注目を集める例ですね。

品川さんには、ファクトと解釈を分けましょうよ、と申し上げたいです。これは、自然科学では当たり前のルールです。解釈は多義的であって良い。品川さんのように批判的な見方をするのは、研究者としては大切なアプローチですね。しかし、他の可能な解釈を公平に紹介せずに、自分の解釈だけを一方的に主張してはあかんでしょう。

大伴旅人太宰府に赴任した背景については、Wikipediaの以下の解説が公平なまとめだと思います。

当時権力を握っていた左大臣長屋王排斥に向けた藤原四兄弟による一種の左遷人事[4]、あるいは、当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された人事[5]の両説がある。・・・旅人の大宰帥時代については、史料が万葉集のみに限られていることから、旅人周辺の人物関係については推測の域を出ていない考察が多い。

歴史学者であれ植物学者であれ、研究者の大事な仕事は、ひとつひとつのファクトをしっかりと確認し、根拠を積み上げていくことでしょう。それをどう解釈するかについては、さまざまな立場があり得ます。その解釈の余地を狭めていくには、ファクトを積み上げるのが大事。一方的な主張を展開して、対立をあおるべきではありません。

あれ、赤とんぼの歌詞の思い出を書いているうちに、しょっぱい話題になってしまいました。万葉集は明治から太平洋戦争にかけて、国威発揚に使われたという歴史もあり、万葉集を語りだせば、しょっぱい話題は避けられませんね。

詩については、いろいろな解釈があって良いと思います。解釈をめぐる対立を避けるうえで大事なのはファクトです。

私の記事では、起源論争を回避するために、いくつかのファクトを提示しました。「梅花の宴」の序文は、張衡「帰田賦」や王義之「蘭亭序」などを念頭に置きながら、独自の工夫をこらして書かれた。そこで描かれた光景は、とてもさわやかだと思います。私の記事が、そのさわやかさを伝えるうえで役に立つことを願っています。