大伴旅人に贈られた卯の花とホトトギスの歌

今日のInstagramでも紹介したように、伊都キャンパス生物多様性保全ゾーンでは、ウツギの花が咲き始めました。f:id:yahara:20190520195417j:plain

ウツギの通称は、ウノハナ(卯の花)。明治のころに作られた歌曲『夏は来ぬ』の最初の歌詞で「卯の花匂う垣根にほととぎす早も来鳴きて忍び音もらす夏は来ぬ」と歌われています。私が子供のころには、この歌は学校で教わりましたが、いまはどうなのでしょうか。この歌詞を書いた佐佐木信綱さんは歌人で、古典にも通じていた方なので、卯の花とほととぎすが万葉集の多くの歌ででセットで歌われていることを当然ご存知だったでしょう。

そのうちのひとつは、第8巻の次の歌。

ほととぎす 来鳴き響(とよ)もす 卯の花の むたやなりしと 問はましものを

(ほととぎすの来て近辺をとよもして鳴いて散らす卯の花と一つになって、どこかに行っておしまいになったか、と跡を追うても、探したいものだが:折口信夫訳、岩波現代文庫より)

この歌には、以下の注がついています。

「右、神亀五年。太宰ノ師、大友ノ旅人の妻、大友ノ郎女が、病のため死んだので、勅使として、石ノ上ノ堅魚が、太宰府に弔問に来た時に、太宰府の役人たちと記夷の城に上って、眺望して遊んだ日、作ったもの」(折口信夫訳、岩波現代文庫より。なお、「記夷の城」は基山城) 

神亀五年は西暦728年。翌年の神亀六年8月5日に改元が行われ、天平年間が始まりました。そしてその翌年、天平二年正月十三日に大伴旅人邸に山上憶良らが集まって32首の梅の歌を詠みました。その序文の一部から「令和」の元号が発案されました。三宅香帆さんの記事によれば、この宴は、妻の郎女(いらつめ)を亡くした大伴旅人を慰める意味があったそうです。

卯の花は、万葉の時代にはとても愛されていて、万葉集には24首の歌に詠まれています。ほんのわずかに黄味がかった白い花の色は、「卯の花色」と呼ばれ、平安時代からある伝統的な色の表現です。卯の花が白く咲いている月夜は、「卯の花月夜」。なかなか風情のある表現ですね。また、卯の花が咲くころに降る「梅雨の走り」の雨のことを、「卯の花くたし」と言います(「くたし」は腐し、腐らせるという意味です)。

それほど万葉の時代から日本人に親しまれた植物ですが、里山的な環境の減少とともに、九大伊都キャンパス周辺では珍しい植物になってしまいました。伊都キャンパス生物多様性保全ゾーンには、数株が残るだけです。しかし、ウツギの花の時期に活動し、ウツギの花の花粉で子育てをするウツギヒメハナバチがさかんに訪花していました。ウツギとウツギヒメハナバチの共生関係が、伊都キャンパスでいつまでも続いてほしいものです。

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