書評「キリン解剖記」-映画のヒロインのようなキリン研究者の成長物語

「キリンがなくなりました」

私の研究は、動物園のスタッフから届くキリンの訃報から始まる。

・・・この書き出しは、そのまま小説に使えますね。え、あの可愛いキリンが死んだ? そこから始まる研究って何? と、読者はもうすっかり郡司さんがこれから語る物語に引き込まれてしまいます。

「亡くなってしまったキリンの遺体をトラックに載せ、研究施設に運び込む。トラックについているクレーンを使って、遺体を解剖室に下ろす。キリンの首は、長さ2m、重さ150㎏ほど。ヒト用の解剖台にぴったりのサイズだ。」

・・・この描写は、そのまま映画の冒頭シーンに使えます。「キリンの遺体」というミステリー感たっぷりの題材が、解剖室に下ろされる。クレーンやヒト用の解剖台という道具立てもリアルで、物語を盛り上げるビジュアルとして、効果的。これから何が始まるんだろう。

以上に引用した文章は「はじめに」の冒頭です。「はじめに」の後半には、こう書かれています。

「この本は、物心つく前からキリンが大好きだった私が、18歳でキリンの研究者になることを決意し、恩師と出会い、解剖を学び、たくさんのキリンを解剖して「キリンの8番目の“首の骨”を発見し、キリンの研究で博士号を取得するまでの、約9年間の物語だ。」

通常の書評なら、ここから本書の内容を要約し、それにコメントをつけるのですが、本書の要約を書くのは、大ヒット上映中の映画のネタバレをするようなものなので、やりません。興味を魅かれたあなたは、もう買うしかありません。「約9年間の物語」が面白すぎることは保証します。

本書には「約9年間の物語」以外に、幼少時のエピソードが書かれているので、そこを紹介して、さらに期待感をあおることにします。

「キリンが、好きだ。

キリンと出会った瞬間や、始めてキリンを好きだと思った瞬間のことは、よく覚えていない。ただ、一歳半くらいの頃に近所の写真館で撮った記念写真には、2頭のキリンのぬいぐるみに囲まれた私の姿が写っている。」

次のページには、この記念写真が掲載されており、か、かわいい。その隣には、著者が3歳の頃に描いたキリンの絵があり、へ、へた・・・(うさぎとネコはかわいい)。

この写真と絵を見るだけで、ただものではない感と、著者のキリン愛とが伝わってきて、ハートを射抜かれます。

本書には随所にキリンにまつわるコラムが掲載されており、本文だけでなく、こちらも楽しい。最初のコラム「キリンの名前と解剖学者」の冒頭には、まど・みちおさんの詩が引用されています。

きりん  きりん  だれがつけたの?  すずがなるような  ほしがふるような  日曜の朝があけたような

キリン愛がほとばしる書き出しですね。そのあとの、「ぐんじめぐ」は濁音が多く、清音だけの名前に対する憧れがあるというエピソードも、読ませます。

このコラムで紹介されているキリンの名前の由来は、私も初めて知りました。中国名だと思っていたら、キリンの中国名は「長頸鹿」。中国で「麒麟」が使われたのは一回だけで、アフリカに遠征した武将が皇帝に、皇帝のおかげで麒麟(伝説の霊獣)が現れたとゴマをすった記録に登場する。その記録を読んだ江戸時代の蘭学者桂川甫周が、ジラフに麒麟の名をあてたそうです。

桂川甫周は「解体新書」の翻訳に関わった蘭学者であることを紹介し、著者は次の文でコラムを結んでいます。

「甫周が生まれてくるのが200年ほど遅かったら、きっと今頃、私と一緒にキリンの解剖をしていたに違いない。」

ここまでの紹介でおわかりのとおり、著者の郡司芽久さんの文章は魅力的です。つかみも、展開も、結びも、うまい。キリン愛にあふれていますが、それを押し売りせずに、落ち着いた文章で読者にうまく伝えています。

そして何より、郡司さんがキリンの研究を決意してから研究者として悩み、成長する「約9年間の物語」自体が、面白すぎます。小説に書きたくなる出会いと展開があり、映画に作りたくなるビジュアルがあります。郡司さん、小説か映画のヒロインを実演していますよ。

日本学術振興会育志賞を受賞した郡司さんは、講演を聞いた宇宙物理学者から「子供の心のままで大人になれて、幸せですね」という言葉をかけられました。この言葉に対して郡司さんは、「この先生のお言葉は、私のこれまでの人生を柔らかく包み込み、肯定してくれたような温かみがあった。これ以上嬉しい気持ちになる言葉に、私はこの先の人生で出会えるだろうか。」と書いています。

きっと出会えますよ。そしていつの日にか、郡司さんが後輩に、同じように温かいはげましの言葉をかける日が来ることを、心から願っています。