竜とそばかすの姫

※思いっきりネタバレありです。

 

人間には自分を犠牲にしてでも他人を助けようとする献身性がある。この人間らしい美徳は、ときには悲劇を生む。主人公すずの母親は、中州に取り残された子供を助けようとして濁流にのまれ、命を落とした。すずは歌が好きな子だったが、母親をなくして以来、人前では歌が歌えなくなった。それは、誰かのために生きるという生き方を拒絶したことのあらわれだった。現実世界で人と関わることを拒んだすずは、父親に対してすら心を閉ざしていた。そんなすずが、数少ない友人の誘いがきっかけで、仮想空間Uのアカウントを得た。この仮想空間では、本人の隠された能力がコンピュータに読み込まれ、アバターにインプットされる。その結果、仮想空間Uの中で、すずはBellの名で自由に歌い、人に歌を届けることができた。そしてBellの歌はたちまち、多くのユーザーの心をとらえ、仮想空間の世界中に多くのファンを生み出した。しかし、彼女の最初のライブコンサートは、竜(Beast)と呼ばれる乱暴者と、竜に制裁を加えようとする監視者たちの乱入によって踏みにじられた。この事件は、すずの献身性をめざめさせた。すずの母親が中州に取り残された子供を見捨てることができなかったように、すずは孤独な竜を放ってはおけなかった。すずは竜の隠れ家である「城」をつきとめ、竜の拒絶に合いながらも、竜の孤独を癒そうとする。やがて竜はすずに心を開いていく。しかし、すずが竜と接近した結果、「城」の位置が監視者たちに知られ、城を守るかわいらしいAIたちは監視団メンバーに攻撃され、城には火が放たれる。仮想空間の「公共」を守ろうとする監視団は暴力的だ。城を失った竜のことが気がかりなすずは、知恵をしぼってインターネット空間を探し、竜の正体である虐待を受けている少年にたどりついた。しかし、少年がすずをBellを語る偽善者だと疑っているうちに、少年との接続は、虐待をする父親によって切られてしまう。「少年にすずがBellだと信じてもらうには、Uの中で素顔をさらして歌うしかない」。幼馴染のしのぶ君にそう言われたすずは、美しいBellのアバターとは違う平凡な素顔を仮想空間Uの中でさらし、歌う。このときすずは、現実世界で現実の少年と関わる一歩を踏み出し、母と同じように自分の身を投げ出して竜に呼びかけた。最初はとまどったUのアバターたち(全世界のユーザーたち)は、すずの飾らない素顔と歌声に心を惹かれ、涙を流す。このシーンは「サマーウォーズ」の仮想空間OZで、アカウントのほとんどを奪われた夏希に全世界のユーザーがアカウントを差し出すシーンと似ている。しかし、「サマーウォーズ」では世界を守るために戦う夏希に対して世界のユーザーが献身したのに対して、この映画では一人の少年を助けるために素顔をさらしたすずに世界のユーザーが涙した。どちらが泣けるかと言えば、「サマーウォーズ」だ。しかしこの映画の共感の質は、ぐっとくる涙よりも、もっと深いものだと感じた。このシーンから、少年の棲む東京の町を探り当て、すずが高知から上京して少年と出会うまでのシークエンスは、かなり都合よく描かれている。この展開に批判的なコメントも目にした。最終的に虐待の問題が解決したわけではなく、その描き方に批判があるのも理解できる。虐待問題に実際に取り組んでいる人がこの映画を見れば、こんな描き方は無責任だと思うだろう。この点は、脚本を工夫したほうが良かったと私も思う。

難点をもうひとつあげれば、すずの父親の描き方は不満だ。少年に会うために夜行列車で上京するすずに対して、「やさしい子に育ってくれてありがとう」っていうのは、かなり無責任。すずを信じて一人で行かせる決断はあると思うが、「自分だけで解決できないときには、すぐに電話しろ」くらいは言えよ、と父親経験者としては思ってしまう。

最後の描き方には、このように難点がある。しかしこの映画は、現実世界で人と関わることを拒んでいた主人公が、母と同じように自分の身を投げ出して誰かを助けようとするに至る成長の物語だ。すずが意を決し、素顔をさらして歌うシーンは、とてもすがすがしい。細田監督が作り出した仮想空間Uの圧倒的なビジュアルと、すず(中村佳穂さん)の圧倒的な歌唱力に支えられた名シーンだ。このシーンにはぐっとくる感動というよりも、主人公の生き方への深い共感を覚えた。

かつて、「サマーウォーズ」を観たあと、ブログにこう書いた。

https://yahara.hatenadiary.org/entry/20090813/1250144029

「しかし、映画を観終わってから、何か物足りなさを感じた。疲れた気持ちで観にいって、元気をもらったかと言えば、そうでもないのだ。「時かけ」のときにも感じた、映画で描かれた世界との距離を、今回も感じてしまった。細田監督が描きたいことと、私が受け取りたいことの間に、ずれがあるのだろう。」

今回は、この「ずれ」をあまり感じなかった。「おおかみこどもの雨と雪」の時点から、細田監督が描きたいことと、私が受け取りたいことが、幸いにして近づいてきたのだと思う。細田監督が実際に子供を育てるなかで積み上げた人生経験によって、映画に深みが生まれているように思う。次回作がさらに楽しみだ。

なお、この映画には、私が調査でしばしば訪問している高知県いの町の仁淀川の風景や、高知市内の鏡川沿いの風景がリアルに描かれていて、その点でも嬉しい映画だった。仁淀川沈下橋を描くのなら、スダレギボウシの花も描いてほしかったと思うのは、欲張りが過ぎるというものだろう。